《5章》良心の声

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この地上生活において、やって良いことといけないことについては、賛否両論がよく闘わされます。やりたくても控えねばならないことがあるかと思うと、思い切りよく実行に移さないといけないこともある……一体なぜでしょうか。

「そんなこうるさいことに拘(こだわ)っていたら商売は上がったりさ」――そんなことを言う人もいるでしょう。大っぴらには言わなくても、内輪ではそう言っているに相違ありません。なぜいけないのかが理解できないわけです。しかし、理由はちゃんとあるのです。しかもそれは、常識的に考えれば容易に理解できることなのです。いささか固苦しくなりますが、私はこれを因果律(いんがりつ)の問題として位置づけたいのです。

宇宙の創造機構は、人間の想像を絶した緻密(ちみつ)さをもって計画されました。その究極の目的は各個に自由闊達な発達と進化をもたらすことです。そのための摂理は厳然としています。不変絶対です。各自は、良心という本能によって、今自分の行なっていることが摂理に適っているか反しているかを直感しております。交通取り締まりのお巡りさんのような人から教わる必要はないのです。

もちろん、自分自身を欺(あざむ)いて“これでいいんだ”と主張することはできます。しかし、そう主張しながらも、心の奥では本当はいけないのだという意識を打ち消すことができずにいます。私は敢(あ)えて申し上げます――この事実に例外はない、と。つまり良心は必ず知っているということです。ところが大体の人間は、知らないことにしたがるものです。これは【深刻な意義をもつ問題】であることを認識してください。

この種の問題を大抵の人は〝善悪〟の観点からではなく〝損得〟の勘定によって判断しております。動機の善悪の区別がつかないわけではありません。ちゃんと識別できるのです。そして、事実、本能的には正確な判断を下しているのです。ところが厄介なことに、人間は習性や損得勘定、社交上の面子(めんつ)から、因果律がめぐりめぐって生み出す結果を考慮せずに、目先の結果にこだわってしまいます。

実に残念なことです。が、死後の世界との関連からいうと残念では済まされない、可哀そうな、あるいは気の毒な事態となっていくのです。不快な思い、辛い苦しみのタネを蒔いていることになるのです。火炎地獄などというものは存在しません。【精神的苦悶という、みずからこしらえた地獄が待ち受けている】のです。

人間の自我、ないしは霊は、精神の中に存在しています。言い換えると、霊が脳という気管を通して意識活動を始めた時から、徐々に精神が構成されてまいります。その脳は、生理学的に解部しただけでも、科学者にとって“最後の秘境”ともいうべき驚異の世界ですが、これを自我の道具として観察した時、いっそう微妙で複雑で、謎は深まるばかりです。たとえば、精神はあらゆる思考と行動の原動力であるという事実までは理解できます。が、その思考と行動の全てが精神に“書き込まれている”、つまり記憶されているそのメカニズムはどうなっているのかとなると、到底理解できないでしょう。

仮にあなたがどこかの店で“付け”で買い物をします。すると何日かして請求書が届きます。それを払い込みます。するとあなたは、その時点でその買い物と支払いに関する一切のことを忘れます。ところが、その店には全ての記憶がいつまでも残っています。精神の記憶も同じです。あなたの意識にのぼらなくても、内容のいかんにかかわらず、全てが記憶されているのです。

その勘定の決済日が死後に訪れるというわけです。支払いを済ませば、帳簿の方はそれで用事がなくなり、安心です。が、記憶そのものは、その後もずっと残り続けます。

さて、ここでしっかりと銘記(めいき)していただきたいのは、精神とその産物、すなわち思念は、地上に存在するあらゆるものを始動させ創造していく原動力だということです。物的なものも、元はといえば精神的なものに発しております。それはもう説明するまでもないでしょう。聳(そび)え立つビルも、最初は思念として設計者の頭の中に存在を得ていたのです。

思念は、分類すればいろいろなタイプに分けることができるでしょう。昼の食事は何にしようかといった他愛ないものも、やはり思念の一つでしょう。が、価値あるものを生み出していく建設的な思念と、反対に害を及ぼす破壊的な思念とがあります。大切なのは後者の方です。ただし、食事だの、衣服だのといった【純粋に個人的なものも、確かに他愛ないものではあっても、それが建設的な思念を妨げるほどになると、破壊的な性格を帯びるようになります】

地上生活でなめさせられる辛酸(しんさん)の大半は、自分自身の間違った思考が原因です。もちろん、生まれ落ちた境遇が一人ひとり異なることは私も百も承知の上でそう述べております。両親から不幸と不遇を引き継いで生きる人は、恵まれた条件のもとに生をうける人よりも生活が辛く、楽しみが少ないにきまっています。

しかし、そうした地位や生活条件の相違におかまいなく、【思念の摂理(せつり)は平等に働きます】。どちらが有利ともいえないのです。それを分かり易く説明してみましょう。

生まれながらにして過酷な生活環境に育った人間は、物の考え方に一つの形――レコード盤に刻み込まれた溝のようなものが出来あがっております。他人から物的援助を受けるようなことはあっても、そういう固定した物の考え方えを変えさせるような精神的援助は、まず期待できません。気の毒ではあっても、その人は生涯その不利な条件を引きずって生きなければなりません。

それは、別の角度から見れば、人生についてまったく無知――そういう生き方以外の人生については何も知らずに終ります。過酷な生活環境を改善する余裕などあろうはずもなく、ひねくれた感情の積み重ねがますます環境を悪化させていきます。

では物的に恵まれた環境に生をうけた人間はどうかといえば、物的な悩みや苦しみがないということが、やはり結果的には前者と同じ精神的退廃をもたらします。同じ“わだち”の上をだらしなく歩き続けるだけで、精神は沈滞の一途をたどります。かくして、両者とも死後の境遇をみずからこしらえていくのです。

しかし、この両者はその影響の及ぶ対象が自分自身だからまだしも救われるのです。これが他人へ迷惑が及ぶ思念の使い方をするタイプになると、死後の報いはもっと深刻です。

たとえば悪知恵のよく働くタイプの人間がいます。他人への迷惑などまるで考えずに、自分の利害を素早く計算して、事を推し進めます。こうしたタイプの人は、破壊的思念の中でも特に影響力の強い思念を出していることになります。思念の悪用の最たるものであり、こちらへ来てから支払わせられる代償は、前者のタイプに比べて、はるかに重くなります。なぜならば、放射した貪欲(どんよく)な思念が強固な壁をこしらえており、それをみずからの力で片づけなければならないからです。

いかなる種類のものであろうと、あなたが一度その心に宿しそして方出したものは、【精神世界に関するかぎり、すでに一つの既成事実となっております。つまりその考えに基づいて行動を起こす起こさないに関係なく、精神的にはあなたの一部を築いている】ということです。

湧いては消えていく取り留めもない雑念は別です。これは大して影響力はありません。私が言っているのは、【あなたの個性が反映している明確な考えのことです。それは、いったん心に抱いたら、精神世界に関するかぎり実行したのと同じこと】であり、良いにつけ悪いにつけ、その報いをこちらへ来てから受けることになります。

そう言うと、心に思ったことをそんなに一々良心に照らしてコントロールしていたら身がもたないよ、とおっしゃる方がいるかも知れません。それは私も同感です。が、百パーセントはできなくても、私が述べたことを事実と受け留めてくだされば、その後のあなたの精神活動に、これまでとは違った厳しい目を向けるようになることでしょう。精神活動こそ大事なのです。

良心を欺(あざむ)いた自覚をすることは、他人にそれを知られることよりも、さらに辛いのです。静かに良心の声に耳を傾けてみられるがよろしい。

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